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 なぜか六本木ヒルズには興味がなかった。
あんなところは田舎者のいく場所で、わざわざ足を延ばして行くこともあるまいと思っていた。
 ところが、ひょんなことからその六本木ヒルズに行くことになってしまった。ビジュアルバンドの彩冷えるが「ゲーム☆アクション」という映画の主題歌(ation)と挿入歌8三秒)を担当するだけでなく出演までしており、その舞台挨拶がヒルズにあるシアターで行われるらしく、わが弟分のMクルーの代表、森崇君に誘われたからである。ここ数カ月、彩冷えるのメンバーの顔も見ていないので、表敬訪問も兼ねていざ六本木ヒルズに向かった。
 日曜日の午後ともなると、ヒルズ界隈は人の海と化している。「やはりここは、我が身を置く場所ではない」と思いつつ、何とかシアターに着き、楽屋へと案内されメンバーに会った。丁度真っ最中の23本のツアーは残りわずかと言うことで、メンバーの顔にも安堵の兆しが見受けられる。厳しいツアーの合間を縫っての映画公開の舞台挨拶。見えないところでよほど体調管理に努めているのだろう。バンドはやっかいなもので、5人編成ならその5人の誰が欠けても演奏は不可能になる。若者に“自己管理”とやかましく言うオヤジがいるが、彼らを見ていると、自分にはそんなことを言う資格がないことを重々承知する。
 映画が始まった。Q・タランティーノが脚本を書いた「フロム・ダスク・ティル・ドーン」を思い出させるような映画である。ようするにゾンビ怪奇映画とコメディーが合わさった内容だ。しかし、このシアターは日本一豪華ではないだろうか。ここは、あのジョニー・デップも舞台挨拶をしたと言うことで一躍有名になった。
 映画も終わり楽屋に挨拶に出向いたが、彩冷えるとファンの握手会に時間がかかるようなので、申し訳ないがお先に失礼させてもらった。
 表に出ると、来る時には感じなかったが街の変化に戸惑うばかりである。だれが予想しただろうか、高層ビルが遊び場になることを。自分の六本木はバブルで散ったが、今なおも進化を感じさせられる。進化が良いことばかりとは思わぬが、旧態以前とした体質より良い。あと10年たったらこの街はどうなっているのだろうか。街だけではなく、日本がと言ったほうが正しいのかも知れない。

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 もう一カ月程前のことだが8月11日(火)に甥の納骨に立ち会った。生前は百キロはあるかと思える巨体が、小さな骨壺に収まっている。午後一時に母親と横浜高島屋前で待ち合わせ、かみさんと三人で三ッ沢の墓地に着いたのは一時半頃であった。親族とお寺から来て頂いたお坊さんの総勢十四人ぐらいが、墓の周りに黒装束に身を包み立っている。お坊さんのお経が始まったが日射しが強く、母親の身体が心配になり、不謹慎だが短く終わってほしいと願った。墓を開けるとひと際派手な骨壺が見え、ふと記憶がよみがえった。あの骨壺は確か親父のだ。こんな小さな墓穴の中でも、見栄っ張りった親父の生前の思い出がよみがえる。人様のお墓で申し訳ないが、脇にハンカチを敷いてお袋を座らせた。長く感じたお経が終わり、そこで三々五々となった。「なにかおいしいものを食べに行かない?」とお袋に言われ、「よし、じゃあ中華にでも行こう!」と意気投合して、久しぶりに中華街へと向かった。
 中華街には高校生の頃、レッドシューズという店に箱バンドとして出ていたので、よく行ったものだが、あの頃と今とでは昼と夜の違いほどある。1967年頃の夜の中華街は、カツアゲやケンカが絶えない街であったが、今は健全な観光地になった。昔の中華街は料理人の味が様々だったが、二代目、三代目と引き継がれ、どの店も同じような味と言われている。
 行先は中華街では行きつけの店、上海料理の四五六にした。たまには浮気心で変わった店に入りたくなることもあるが、お袋とカミサンと一緒ならメニューを見なくても頼める店の方が良かったからだ。オコゲ、チンジャオロース、空心菜の炒め物、海老チリなどを頼み、瓶ビールを飲み干す。ふと今日の納骨の儀式を思い出す。人は死ぬと葬式をされて焼き場で焼かれ、骨になって壺に入り墓に入るが、その儀式には意味があるのだろうか。野生では、老いて死ねば他の動物の餌となり糞となり、そして草木の肥料になって、その実をまた動物たちが食べる。“生き死に”とは、その繰り返しではないのか。なぜ人間だけが違うのか。チベットでは鳥葬がまだ存在している。中国は非衛生を提言して火葬を進めたが、今でも千ヶ所の鳥葬場所が存在しているとのことだ。海に散骨するのも、魚の腹に入るのなら願ったりである。生きている間に何万匹の魚を食したのだから、そのくらいはお返してあげたい気にはなる。それにしても四五六の五目オコゲは旨い…。
先日、大阪から出てきた我がエレックレコードの新人バンド、ザ・アウトロウズのライブに出かけた。 夜7時半からのライブだが6時に到着。楽屋に顔を見せ、時間があるので新大久保のホルモン屋に仲間と駆け込み、ホルモンをつまみに焼酎で一時間ぐらい軽い呑み。
 驚いたことに、新大久保の飲み屋街はほとんどが韓国系である。行ったのは幸永というホルモン屋だが、その界隈に15店舗ぐらいあるのではないかと思うほど、どこまかしこも幸永だらけ。以前にもこの店に来たことがあるのだが、そのとき、「満員だからこの先の幸永に行ってくれ」と言われ、その先の幸永に行くとそこも満席。で、「この先の幸永に行ってくれ」と言われて行くと、そこも満席。三軒目の幸永でようやく食べることが出来た、なんてことがあった。
 ほろ酔いでライブハウスに戻る。ステージではひとつ前のバンドがラストの曲を演奏中だった。その店では、各バンド30分の持ち時間しかない。どのバンドも30分間の勝負である。弾き語りのインターバルが入り、いよいよ我がエレックのザ・アウトロウズのライブが始まった。最初は少し固さを感じたが3曲目ぐらいから本領発揮。お客さんの目の色が変わる。素晴らしいステージへと昇って行く。心の中で、「こんないい演奏している限り、必ずザ・アウトロウズは売れる」と確信。あっと言う間の30分であった。
 楽屋でメンバーに会って激励し、明治通りに上がった。が、なんとなくもの足りない。またまた近くの飲み屋に行こうということになり、新大久保の飲み屋街をかっ歩するが、行けども行けども、あるのは焼き肉屋とホルモン屋ばかり。またホルモンを食べる気にならず、足を延ばしてようやく普通の居酒屋を発見。軽く飲んで三々五々で解散した
またまた旅の話である。
5月18、19日にみちのくに出かけた。東京駅から東北新幹線に乗り、第一の目的地である郡山へ。この地には、エレックレコードのスタッフで昨年9月に脳梗塞で倒れた、“ブン” こと國分教貴の実家がある。彼はいまそこでリハビリに励んでいるのだ。

駅に着くと、ブンのお父さんが車で迎えに来てくれていた。車窓の外には、のどかな田園風景が広がっていた。ブンの実家に到着、母親とブンの出迎えを受ける。8ヶ月ぶりの対面だった。握手をしようとしたが、ブンの右手はまだ動かない。笑いながら左手で俺の手を握り返してくれた。

「教貴、よかったね。社長さんがこんな遠くまで来てくれたよ。社長さんをテーブルまで連れてってあげなさい」
母親に言われてニコニコ笑いながら歩くブンの後に付いて行くと、俺の酒好きを知ってか、テーブルには酒のつまみが用意されていた。田舎を感じさせる漬物や甘露煮、そして刺身など。ブンがビールを持ってきてくれた。左手一本で器用に缶ビールを開け、グラスに注いでくれる。

「ブンの酌でビールが飲めるなんて、俺は幸せだ」
「俺もです」
たわいない話が続き、一段落した後で俺は言った。
「ブン、お前6ヶ月でリハビリを完成させて、エレックに戻って来い」
「えっ6ヶ月ですか!?」
無理は分かっている。が、俺がブンにしてあげられるのは、希望を置いてくることくらいだと考えていた。
楽しい時間はすぐに過ぎていく。缶ビールも5本ぐらいは飲んだだろうか。そろそろ行かなければならない。
帰りは、家族全員で郡山まで送ってくれた。

 5月10日(日)、恵比寿ガーデンホールで行われた泉谷しげるの誕生ライヴ〈生まれ落ちた者たちへの生誕祭〉に出かけた。アンコールで忌野清志郎の「雨上がりの夜空に」が流れ出し、思わず熱唱した。ふっと気がつくと、頬に涙が流れていた。
 清志郎さんとは縁がないわけではなかったが、一緒に飲んだとか遊んだとか言うほどの関係ではなかった。58歳で世を去っては欲しくないロッカーであった。
 先日は、アシュリー・ヘギが17歳の若さでこの世を去った。難病のプロジェリアの患者であった。アシュリーは、「次に生まれるとしたら誰に生まれたい?」とDJに聞かれたときに、「もう一度自分を選ぶ」と答えていた。
 清志郎さんは、次に何に生まれてきたかっただろうか。
 命とは何だろう、と改めて思う。
 歳を取り、子供の介護がなければ生きていけなくなった親の命を守るために介護していたはずが、いつのまにかその介護に疲れ果て、無理心中をはかる親子のニュースが後を絶たない。
人はなぜ、泣きながら生まれてくるのか。人の世が地獄だからか。いやでいやでしょうがなくて生まれてくるからか。わからない。
自分も今年還暦を迎えるが、別にそれほど気にはならない。歳を取ったと感じるのは老眼ぐらいで、それ以外は若いときとほとんど変わっていない。おっと、食べる量は減ったか。若い頃はラーメン・餃子・チャーハンを軽く平らげたが、いまは食べきるので精いっぱいだ。酒を飲んだ翌日は、スポーツジムで大量に汗をかくようにしているが、それは飲んだ分を汗で流せばプラス・マイナス・ゼロだ、と思っているからで、でも、そんなのは自分に嘘をついているに過ぎないということに、本当は自分でも気がついている。
死ぬことを平気だとは思えぬが、そろそろそういう運命を受け入れる覚悟をしなければいけない歳に近付いている。思うがままに生きたいと誰しも願うが、それは無理だ。寿命が300年ぐらいあれば別だが、生まれたときから、死はその先にあるのだから、この世に生まれたことを潔く貫き通す人生が送れれば、幸せとしたい。
つれづれにそんなことを思いながら、忌野清志郎さんのご冥福を祈る。
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